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MESSAGE
グローバリズムの地域化と地域主義のグローバル化
水脈二九号 2005年6月
鶴岡市郊外の櫛引町にアル・ケッチャーノという評判のイタリア料理の店がある。米沢牛、羽黒の羊、山伏豚、ハーブで育てた余目のオーガニック鳩、それに庄内浜でとれる海の幸、野草、グミや桑の実、熊、ウサギ、キジなどの山の幸、ありとあらゆるものがメニューに並ぶ。地元の食材を生かしてつくる料理は季節ごとにめまぐるしく変わる。ここの主人奥田シェフは土地の食材を発掘し、その優れた生産者を探し出し、ときには自分が求める素材を一緒になってつくり食卓にのせる。大きな黒板に書かれたその日のメニューには地元の地名を冠した料理が目白押しに並び、料理の味や創意工夫には感動させられる。近頃評判は関東近畿にまで及んでいるらしく、週末には県外ナンバーの車が目立つ。シェフは子供の頃から、手当たり次第に路傍の草などを口にして味を確かめる性癖があったらしい。そのために味覚が発達したのかはわからないが、食味には旺盛なる好奇心と異様な探究心をもっていることだけは確かのようである。最近は食材の量と輸送距離を掛けたフードマイレージという指標が取り上げられるようになった。そのため地産地消が俄然注目されはじめ、奥田さんはスローフードの象徴的な存在に祭り上げられているが、本人は気負わないひたむきで朴訥な人だ。
同じ庄内の酒田市に30年前、ル・ポットフーというフランス料理の店ができた。開高健や評論を書いていた荻昌弘らが絶賛し、当時は日本海一のフレンチともてはやされた。アル・ケッチャーノと同じようにほとんどの食材を地元で調達しているために、フランス郷土料理と称していた。フランス料理に郷土を冠するのはうまい命名だと当時は感心した。ここのオーナーは「初孫」という造り酒屋で鶴岡出身の丸谷才一の兄弟筋にあたるから、この命名はもしかすると丸谷によるものかもしれない。それは当時、現在に比べると格段になじみの薄いフレンチを、山形の人たちに身近に感じ取ってもらうための戦略であったのか、それとも新鮮な地元の食材を使っていることをアピールするためであったかは不明だが、間違いないのは地元だけでなく遠いところに住む人たちをも虜にしたことである。
奥田さんはそのル・ポットフーから多くを学んだといわれるが、より深く土地の味覚に接触し、忘れてしまった土着の食材や、埋もれた質の高い生産者を掘り起こしている。かつて庄内地方は日本海を通し、大阪京都さらには江戸との米・紅花の交易や羽黒山信仰による交流によって栄え、上方文化の影響を色濃く残す地域である。そのために食の領域においても多彩で敏感な土地柄であり、代々うけつがれた農畜産物にはすぐれたものが多い。奥田はそれらの生産者を直接全国のレストランに紹介、生産と消費を結びつけて地域全体を再生し活性化する運動の中心になっている。
ここでイタリアンの店を取り上げたのは理由がある。ひとつは地方の片田舎でイタリア料理を日本食以上に身近で親しみやすく、しかも創造的にできるかという難しさに挑戦する料理人の姿勢に、後ろ向きにならずに近代建築が日本の風景と折り合いをつけて同化できるかの術をみるからである。グローバリズム対地域主義という対立の図式ではなく、グローバリズムの地域化、あるいは地域主義のグローバル化というべきか。もうひとつの理由は同じ「ものをつくる」人間の視点でみたとき素材への執拗なまでのこだわりには共感することが多かったからである。建築の世界でも土地の素材を可能な限り生かした地域独自の建築をつくり、地域の再生に取り組もうという動きがある。実は20年以上前、杉の間伐材を薄くスライスして集成材にする事業に係わったことがある。当時は棄てられていた間伐材という資源を有効活用し、地域を活性化させるベンチャービジネスとしてもてはやされた。しかし実際は内陸の山間部につくられたその工場には、はるばる北米から輸入された2mの大径木の松が運びこまれ製品化されることになった。せっかく周りに間伐材が豊富にあるにもかかわらず、何故北米から船で港に運び、山の中までわざわざトラックに乗せかえてまで運んで米松を使うのか最初は理解できなかった。まさか、地元の山から切り出した杉より、輸入して長い距離を運ぶ米松の方が安いとは到底想像できなかった。せっかくの間伐材を無駄にしないで製品化して林業の再生をはかろうとしたが失敗に終わり、この会社はその後倒産してしまった。時代を先取りしすぎたのかもしれない。
しかしあれから20年もたち、経済のグローバル化が進んだせいだろうか、それとも地元の土で生まれたものを地元で活用しようとする機運が生まれ始めたせいだろうか、高くて敬遠されていた木材だけでなく、地元で産出する他の建築資材も近頃は使いやすくなった。ほとんど建築資材としては忘れられていたような石材ですら、細々ではあるが生産されていることが知られるようになり、ヨーロッパやアフリカ・中国の石に代わって使われるようになった。大谷石と同じ凝灰岩で少し山吹色の高畠石や、安山岩の富沢石などごくごく少量しかとれないが、よく見ると独特の風合いの魅力的な素材であることに気が付き、すこしずつ建築家のこころを掴みつつある。実は隈研吾氏が4年ほど前、銀山温泉という大正時代の3層の木造旅館が軒を連ねる温泉街の一角に「しろがねの湯」という温泉組合が経営する小さな銭湯にこの富沢石を使ったが、この石は地元でもほとんど知られていない。それほど地味な石材で、私もこの建物に使われているのをみてその魅力を知ったほどだ。本当は石そのものの魅力より、よそから石を運ばずこのように地元でもろくに知られていない石を見つけ出し使うという建築家の見識に感心したといった方が正しいのだが。この近くには高宮真介氏が設計した村山市の真下慶冶美術館がある。小さい建物だが最上川を見下ろす高台にあり、風景のなかに馴染む美しい作品だ。そこでは緑っぽい凝灰岩の楯山石という今では生産されていない石材が使われている。戦前に民家の塀などに使われていたものが解体され放り出されていた石を集め、ポーチや中庭に敷き詰められた。また地元の杉を使って集成材にされ柱や梁として使われている。その上間伐材をペレットにしてそれを燃料にしたストーブで暖房するシステムまで採用し、地産地消によってつくられた公共施設のモデルともなっている。
最近では建築資材としてほとんど省みられることがなかった地元の杉や唐松なども耐久性や見掛けに多少の難点があっても、昔のように床材などにも使われるようになってきた。地元の土で育った素材を使うことで、自然に周りの風景に同化するデザインになるのだろうか。少なくともこれらの建築が人々のこころの中に入り、違和感なく受け止められているように思う。さらにこのような動きを発展させて、奥田がやっていることと同じように、大工・左官・家具・建具職人の技を再発見して、あたらしい建築のなかでそれを生かす工夫ができるようになれば、地域が持っている資源をもっと活用し地域の魅力を引き出す力になれる。グローバル化する世界のなかで、それが地域の再生にどれ程結びつくかわからないが、建築の力と他の領域が結びついて、地域が活力を維持していくためにもこうした努力を積み重ねることが求められている。このように地方で活動する建築家は地域おこしの担い手としての役割をいやおうなく担わされるようになってきた。重い責任があるという思いが強い。いま地方の置かれた状況は厳しいものがあるが、地域のなかに眠る豊かなエネルギーを引き出すためにも、今後建築家にはますます大きな構想力が求められる。